ガイド船の船長を始めたい人へ。私の生い立ち黒歴史の始まり

前回の続きです

ガイド船の船長を始めたい人へ。私の生い立ち高校時代

なんとフリーターになるという決意をしてしまう僕。この時点で間違いとか反省とかそういったものもありますが、まずはひとまず回想だけさせてください。

 

フリーターになる。フリーターとはいえ当たり前ですが働かなくてはいけません。そもそも釣りってとてもお金がかかるものです。働いたのは深夜のスーパー。給料良かったんです。準社員という形で入社しました。

 

 

この時の釣行ペースは週3。4日働いて、あとは釣りです。メインフィールドを霞ヶ浦とし土浦や潮来にひたすら通いました。でもトーナメントには出ていません。それも釣具屋の店長からの指示でした『JBなんて終わってる、バスプロなんてそもそも食えないんだから、海とかトラウトとかいろんな魚種が釣れるアングラーになるべきだ。だからバス以外も釣りに行け。トーナメントは出るな』

 

仕事と寝る時間以外は釣具屋さんで接客、掃除などのお店のお手伝い。お手伝いというからには無償です。でもずーっといました。来ないと怒られたのです。なぜか。

 

 

バス以外も、という指示でしたのでお店のお客さんとトラウトにもよく行きました。渓流をメインとしつつ芦ノ湖や中禅寺湖などレイクにもよく行きました。

 

 

ひたすら釣りに行きました。そこそこ魚も釣れるようになりました。でもこの先に何がつながっているかが見えませんでした。バスプロになりたい。釣りで食っていきたい。その思いだけで具体的に何も出来ていない自分がいました。ただ釣りをしているだけ。仕事はスーパーの店員です。

 

しかし当時は釣具屋の店長を信じていました。この人についていけばどうにかなる。この人についていけばバスプロになれる。この人についていけば釣りが仕事になる。そんな訳もないのに。

 

 

何も出来ていない自分に嫌気がさして何かを変えないといけないとと思い、二十歳を機に深夜のスーパーを退職します。(後に出戻りします)

 

次に務めたのは電球の卸問屋、小物家電のメーカー、そんな会社です。最初はパートとして勤務しました。確か5時間かな?何も出来ていない劣等感から毎日とにかく釣りに行こうと思ったのです。

 

毎日毎日釣りに行きます。地元ではまともな魚が釣れない頃でしたので、ひたすら霞ケ浦や、牛久沼、小貝川や鬼怒川など、いける限界の距離を毎日毎日。もちろん釣具屋の手伝いも毎日行ってました。

 

そんなことをしているとどうなるか、当たり前ですがお金が無くなります。わかっていた結果ですが劣等感からかそうせざるを得ませんでした。そして釣りにも行けなくなります。そうなると結局働くしかありません。ついにここからダブルワークの生活が始まります。毎日の睡眠時間は3時間くらいになります。

 

 

確か昼から18時まで電球屋さん、その後運送会社等で朝まで仕分けのバイト、という感じ。生活は安定しましたが、釣りに行けなくなったので精神的には追い込まれていきます。そしてこの頃から一人暮らしを始めます。親元にいてしかも何も出来ていないフリーターという存在に自分が耐えられなかったのです。せめて自立してますと周りに示したいと思い一人暮らしを始めました。

 

月27000円の超ボロアパート。ぼっとん便所、ガスコンロみたいなのでお湯沸かすお風呂、しかも浴槽は真っ二つに割れててお湯がたまらない、お風呂の下水溝からネズミの出入りは自由、そんなボロアパートなのになぜか空き巣に入られてガラスは割られて割れたまんま、すごいでしょ?(笑)

 

結局経済的に週2日ペースでしか釣りに行けないことが、やっとこの時点で分かります。たぶん22とか3とかかな?これなら普通に勤めて有給とか使って釣り行った方が釣り行けたんじゃないか?そう考えるとさらに劣等感が強くなります。

 

そしてここで事件が起きます。スピード違反59キロオーバーで運転免許が取り消しになるのです。

 

続く